「話せないことも話さなくてはいけない」
南京大虐殺研究家が全社会に日本侵略軍による慰安婦の史実の救済を呼びかけ
南京慰安婦初の証人雷桂英が研究会で血の涙の歴史を語る
昨日、王選、孫宅巍、経盛鴻、張生等の全国的に有名な南京大虐殺専門家が共同で、全社会が日本侵略軍による慰安婦の史実を発掘して救済し、全社会がこのまもなく消え去ろうとしている慰安婦の証人に関心を持ち、重視するべきことを共同で呼びかけた。長い時が流れ、日本侵略軍によるあの屈辱の歴史は既に生死のラインに近づいてきてしまっている。
「話せないことも話さなくてはいけない」
昨日、南京で初めて元慰安婦と名乗り出た雷桂英が、すすり泣きながら彼女が耐えてきた記憶を振り返った。
慰安婦と名乗り出たのは南京で1名だけ
現状:南京の慰安婦の研究は始まったばかり
昨日、日本侵略軍の南京慰安婦に関する調査研究学術フォーラムにおいて、有名な学者であり、細菌戦中国被害者原告訴訟団の団長である王選が、南京慰安婦史の研究に対して憂慮を表明し、国内の南京慰安婦に関する研究は始まったばかりであり、少数の民間の研究が無ければ、日本侵略軍による南京慰安婦の歴史は空白になっていただろうと指摘した。
10年前から南京慰安婦史の研究に着手した南京師範大学教授の経盛鴻は、外国での慰安婦に対する研究に比べ、南京での慰安婦の研究は始まったばかりであり、明らかに遅れてしまい、多少歴史を発掘して救うことしか出来ていないとした上で、江蘇区の慰安婦の研究は、第一に、時が経過してしまい、慰安婦の証人や物証は消えていってしまっている客観的な状況があり、第二に、中国の伝統的な文化の束縛により、慰安婦事件の当事者やその子ども達がその時代を公にすることが出来ないという主観的な原因があると指摘した。
憂慮:証言が減りつづける 名乗り出る者はさらに少ない
61才の王炳毅は南京の民間の研究者である。彼は1987年から65名の南京慰安婦の資料収集と取材を行い、現在20名の記録の整理が終わっている。王炳毅によると、20年に渡り取材を行った65名の慰安婦のうち、現在生存しているのは10名にもならず、生存している慰安婦は全て南京に暮らしており、名乗り出て証言することは出来ないだろうとする。
「慰安婦の調査研究は本当に難しい」王炳毅はため息をつく。彼の調査は民間の行為である為、派出所に向かい当時の状況を調べようとしても、ほどんどの派出所で拒絶され、所属先による調査証明を必要とされる派出所もあった。王炳毅は民間人であり、所属先による調査証明などは無い。慰安婦は社会体により、取材を受けたがらないこともあった。王炳毅の20年の調査では、65名の慰安婦のうち、40名に取材を拒絶された。既に資料整理が終わった22名の慰安婦の資料のうち、2名の資料は慰安婦の家族の者により破棄され、彼の目の前で焼却された。
「南京の慰安婦の当事者のうち、現在公に名乗り出ている者は雷桂英一人だけなのです」経盛鴻教授によると、はるばる南京の慰安所の跡地を特定に来た韓国の朴永心さん以外には、南京大虐殺事件の研究範囲における慰安婦のうち、名乗り出ているのは雷桂英さんだけなのである。
呼びかけ:南京の慰安婦の歴史を救え
江蘇省社科院研究員の孫宅魏教授によると、南京大虐殺は虐殺だけに留まらず、「殺・焼・淫・奪」の4つの複合であるとする。南京の慰安婦は大虐殺の中での性的な暴力であり、この時代の歴史の発掘は、南京大虐殺事件の更なる証拠となる。学術界の慰安婦の研究の開始は非常に遅れており、全社会を動員し、慰安婦の歴史の研究に関心を持ち、重視する必要がある。
「雷さんの生活の糧は毎月180元の土地保証金だけです」 孫宅魏によると雷さんは慰安婦とされた後遺症で生育能力を失い、現在は2人の養子が彼女を支えている。数年前までは、道端で油条を売る生活をしていたが、病気になっても薬も飲むことが出来なかった。ただ、勇敢に名乗り出てからは、ある病院が援助を申し入れ、彼女は医療を受けられるようになった。雷桂英さんは今年1月、南京大虐殺生存者援助教会に登記を済ませているが、現在まだ生存者証明は受け取っておらず、協会の援助も民生部門の補助も受け取っていない。
「60名以上の慰安婦が既に亡くなり、40個所以上の慰安所の跡地も殆ど壊されてしまいました。」 王選はこのような現状において、社会の各団体特に若者が中華民族のこの屈辱の歴史に行動を起こさなければ成らないとした。
9才で犯され13才で慰安婦に
この79才の老人は痩せ、白髪に覆われている。頭の上部には赤い傷跡がある。「日本人に銃で突かれた痕傷です。足にも刀の痕があります」 これらの肉体上の傷跡以外にも、彼女は13才の時に日本侵略軍によって慰安婦にさせられていた経験を持つ。
13才で騙され慰安婦に
雷桂英は1928年生まれ。7才で父親を亡くし、母親は父親の葬式の時に他人によって「略奪された」。 幼少から彼女は天涯孤独で、南京の上峰村、湯山鎮付近を流浪した。9才の時、日本侵略軍が輸湯山を占領し、雷桂英も犯された。13才で、騙されて慰安所に入り、慰安婦となった。
飢えと寒さに耐えていた13才の時、「腹いっぱい食べられる」誘惑により、湯山鎮のある老婆により日本人の家で「子供の世話」をするように紹介された。山本と名乗る日本人の家に着いて初めて、そこが慰安所であったことが分かった。雷桂英の始めの仕事は日本人の2人の子供の世話で、「子供を連れて街に遊びに行った。」 しかし雷桂英は次第に成長し、ついに慰安所の日本兵によって踏みにじられることになった。慰安婦としての生活は2年以上続いたが、雷桂英はチャンスを見つけて脱走した。
「それは1941年8月か9月、私がまだ13才の頃でした」 雷桂英の記憶は確かである。「あなたには鬼子がどんなに畜生だか分からないでしょう。大きな部屋で、5〜6人の同僚が接客を行い、後ろに多くの鬼子が並んでいるのです。入って来て、私が抵抗すると、鬼子は銃で私の頭を突き、刀で私の足を切りつけ、血だらけに成りました。」 今でも雷桂英の頭と腿には痕が残り、障害が残っており、歩くことも困難である。
13〜4人の同僚が1年後には6人に
雷桂英によると、彼女達は平均して1日に4〜5人の鬼子に蹂躙された。土日になれば、鬼子の班長が10人を引き連れ、3〜40人にもなった。彼女が慰安婦となって直ぐに、一人の同僚が虐待されて死に、床は血の海となった。日本人の経営者は何事も無かったように、人を呼んで処理をした。ある同僚は接客数が余りに多く、腹がはれ上がったが、日本人の経営者は引き続き接客するように命じた。慰安婦となって直ぐの時には13〜4人の同僚がいたが、鬼子が人さらいをして補充したものの、1年後には6人となり、その他は全て踏みにじられて死んだ。
勇敢な慰安婦の証人の経歴
雷桂英は1943年春のある晩、トイレに行くとウソをついて逃げ出した。17才で結婚したが、子供を産むことが出来ず、養子を迎えた。足の傷のため、1976年以降働くことが出来ずに療養している。多少の漢方の知識があり、知り合いの小さな病を治療することがあるが、報酬を受け取ったことは無い。あの時代の屈辱の経歴を誰にも話したことは無かった。村の80才以上の老人は皆彼女の過去を知っているが、誰もそれを語らなかった。しかし、村のタバコ店の前で販売されている新聞を見て、日本が慰安婦を強制している史実は無いと強弁していることを知り、非常に腹が立った。韓国の慰安婦が南京を訪れ慰安所の跡地を指摘したニュースを聞き、奮い立った。数ヶ月の葛藤の後、彼女はあの時代の歴史の真相を語る決断をしたのである。2006年5月、雷桂英は江蘇区の公証所で公証を取得し、自己が慰安婦を強制させられたことの証拠の保全を行ったのである。彼女は、我が省で初めて慰安婦と公証されている。
南京師範大学の経盛鴻教授によると、雷桂英は2個所の慰安所跡地を指摘している。一ヶ所は離湯山鎮政府から程近い農業銀行
の付近で、元々高台坂と呼ばれ、彼女はそこで慰安婦となっていた。もう一ヶ所は湯泉東路60号で、日本軍人用の倶楽部があった場所で、比較的大きな慰安所があった。 農報記者 朱福林
また、慰安婦の記事です。
「雷桂英」や「中国人の慰安婦」というキーワードは、昨年からチラホラ出て来ていました。つまり歴史が浅い、始まったばかりの宣伝です。
日本では保守系の新聞等で慰安婦問題に関する史実が宣伝され、中共の対日工作は思惑道理のスピードでは進んでいなそうですが、世界各国では中共が圧勝していますね。
安倍首相に対して「歴史を否定する国の首相」というレッテル張りが成功しているようです。この記事では慰安婦と南京を絡めていますね。つまり、南京大虐殺を否定する者に対するレッテル張りの準備が万全ということでしょう。慰安婦騒動を南京大虐殺を肯定させるイメージ戦略の一部として取り込んでいると考えられます。
少ないカードでよく考えるものです。まぁ、一点だけ言っておくならば、あまりこのお婆さんに話をさせない方がいいと思いますよ。世界は騙せても日本の保守層は疑い深いですから。