最近、米国人監督クリント・イーストウッドが「ヒューマニズム」を標榜し第二次大戦の皇軍を描いた映画が、日本でセンセーションを引き起こし、日本人の自尊心を駆り立てた。硫黄島の指揮官であった栗林忠道将軍を日本の有名な俳優である渡辺謙が「ヒューマニズム」たっぷりに、自己の残酷で重い使命を深く理解している「理知人」として演じた。この映画が日本で公開されると、日本の映画館は満席となり、映画を見終わった日本人は皆、自尊心と悔しさの涙を落とした。
「硫黄島からの手紙」は米国人監督が「尊重する態度」と「ヒューマニズムに忠実」な手法で第二次大戦時の日本の軍人を描いた初めての映画で、オスカー賞の4部門にノミネートされ、5週連続で高い興行収入をあげた。ある日本の老人はこの映画を鑑賞後涙目で、戦時中の尊厳に満たされた人を非常によく描いており、尊厳がこの作品のテーマだと話した。
それでは、この映画の内容と従来の「凶暴で残虐な鬼子」と描かれた日本軍の描写の何が違うのであろうか?
この作品では、日本の兵隊が人間的に悲惨に描かれている。これはつまり、このような戦争において、日本人もその他の被害を受けた人民と同様に被害者であり、さらに悲惨であり、唯一の違いは日本人は刀を持っていたが、その他の国の被害人民は殺されただけであったとの意図をもっている。どうりで、日本人がこの作品を見終わると、無念さで満たされ、感動して満面に涙を流すわけだ!!!!つまり、日本人が普段思っても話せない話を、この映画が話しているのだ。では日本人は普段何を考えているのか?
日本人は一途に中国を侵略した戦争が、卑劣で恥知らずで強盗行為で、世間からつばを吐きかけてやりたいほどに軽蔑されることであることを認めようとしない。この作品は日本人の声を代弁しているのである。日本人か引き起こし、他国人から「侵略」とされる戦争を当時の日本政府のプロパガンダと同じく聖戦であると。日本の軍人は聖戦の戦士だと。この聖戦の戦士の殺戮は、「大東亜聖戦」の障碍の邪魔者を消し去る聖戦であったと。
子どもの頃から我々は映画の中で、日本鬼子の凶悪で残忍な姿を脳に刻み込んでいる。これはわが国政府が誤った毒薬を我々に飲ませていることを意味する。我々のような「愚民」は「順民(他民族の支配に帰順した人民)」に成れず、日本政府の民衆への「救い」の配慮を理解できないのである。どうりで日本の老人が我々中国人を「支那豚」と呼ぶわけだ。
少し残念なのは、この映画が中国での南京等の多くの大虐殺、三光政策、中国での殺人、略奪、強姦、拉致、731、百人切り競争・・・を取り上げていないことである。もしも取り上げたなら、「ヒューマニズム」や「尊厳」の角度から壮麗な歴史物語を描けていただろうか? 歴史上での日寇の「ヒューマニズム」や「尊厳」はどのようなものだというのか? 彼等の「ヒューマニズム」がクリント・イーストウッドが掲げる「史実を尊重する」ものならば、「狼」の「ヒューマニズム」と「鬼の尊厳」となるのであろうか? 残念なのは、クリント・イーストウッドは目的を達成する為、人類が専用で使うべき「ヒューマニズム」や「尊厳」を使ってしまったことである。まったくもってお笑いである。童話の世界のように、野獣を擬人化し、人の言葉を話してしまっている。童話は童話であり、娯楽に過ぎない。もし君が現実で影響を受けてしまうならば、本当に野獣に「ヒューマニズム」や尊厳があると思ってしまうことであり、君は間抜けな豚である。
この作品は、日本の軍国主義の復活のタイミングで上映され、彼等が必要としていない「恥辱」をゴミ箱に捨てさせている。「読売ウィークリー」である評論家は、「この映画は偏見がなく(それなら抗日映画は偏見だらけになってしまう)、ヒューマニズムから戦争を描いている。我々は栗林将軍や日本の軍人の誠と尊厳を感じることができる」としている。これは当時の日本の軍国主義の見方と同じである。
掲示板の投稿です。作者は愛国主義世代の標準的な若者でしょう。軍国主義日本のプロパガンダには抵抗するものの、自国のプロパガンダはそのまま信じ込んでますね。
もちろん、極極一部ですが、同じ映画を見てもう少し違った感想を持つ中国人もいます。当ブログとは正反対の傾向の中国の記事を選んで翻訳されている有縁ネットさんが訳出されています。532中国の三面記事を読む(136) 「硫黄島からの手紙」を見て(1) 「内江葉子」と名乗る作者、バックグラウンドはわかりませんが、中国人にしては上出来でしょう。当然、自分のブログ(中国語)では売国奴扱いされています。
オスカー賞、もう直ぐ発表ですね。