「国際先駆導報」が1月5日に発表した「中国人の誤解した世界」は、メディアやネットに巨大な反応を引き起こした。
社会変革時の中国人が急に世界を理解しようとしたことは、メディアによる迷信や国外の報道による誤りを信じてしまうことになった。急激に発展する世界においては、適度に周到かつ慎重なことが必要である。
「国際先駆導報」は最近、意義のある仕事を行った。外国が如何に中国を誤解して「中国威嚇論」を論じているかを批判するとともに、自己を反省して中国がどのように世界を誤解しているのかを深く探ったのである(詳細は本紙1月4日、22日の紙面を参照)。この特集において、ある潜在意識が人々に脳裏に存在し、中国人が世界を誤解するのは、大部分は中国人の誤りであることがわかった。これは本当なのか?
背景:中国と世界の距離が縮まった
いわゆる「誤解」の前提は、相対的な真実、客観が存在することである。しかし、多くの事柄はそうではない。ここで言う世界ととは、自然の世界を指すものではなく、人的な世界を指す。人的な世界そのものには完全な客観性がなく、「誤解」以外も含まれることになる。
さらに実質的な問題として、中国人が現在世界を誤解していることと、アヘン戦争の際に西側を誤解していたこととが違うのかという問題がある。中国人は200年も世界を見ていて、改革開放から30年も経っているのに、なぜ我々はまだ世界を誤解しているのであろうか? 何かしらの必然が存在しているとでも言うのか? 中国人は如何に世界を見るべきなのであろうか?
おいて、中国は「世界の中心」であった。現在、台頭する中国は次第に世界の核心に入り込んできている。外にある世界の光景が、中国の内なる世界に入り込んでいる道のりにあるのである。いわゆる客観的な世界はそもそも存在せず、実際は心と化した世界である。つまり、中国人がなぜ世界を誤解するのかの重要な原因の一つは、中国が台頭し相対的に世界が没落してることされ、我々が「中国の台頭」を語るとき、世界のその他の国家が中国と同時に台頭してるとは考えていない。つまり世界を見るときに固定的なピントであり、その対象の背景が交錯して移動することで、ピントがずれた状態になっているのである。
今日の中国人が世界を誤解しているのは、過去とは異なった状況なのである。
誤解を避ける為には薬が必要
恐ろしいのは誤解ではなく、故意の誤解であり、誤解せざるを得ないことである。なぜ誤解を避けられないのか? 我々はまず始めに何が誤解であるかを明らかにし、それを分類し、薬を処方しよう。
詳細に研究をすると、3種類の誤解があることがわかる。無意識の誤解、意識的な誤解、世界自体の非解読性である。
まず無意識の誤解を見てみよう。いわゆる無知無罪である。人々は知らない事柄に対して3種類の心理を持つ。恐れ、好奇、冷淡である。人々は恐れを嫌い、好奇も冷淡も面倒であり、知らない世界に対し、単純化して理解し、恐れから逃れ、好奇を駆逐し、面倒から逃れ、心を慰め、冷静になるのである。いわゆる理解は、事柄を本来の形以外に認識するだけでなく、その誤解という結論に結びつく。例を2つあげよう。ソマリアと聞けば、我々はすぐに内戦を思いつき、ハリウッド映画「ブラックホーク・ダウン」を思い出す。インドと聞けば、すぐに汚いが神秘な国であると思う。この種の「常識」の誤解は、無知から生まれるわけではなく、固有のイメージや偏見によるもので、また直ぐに変わり繰り返すものである。
意識的な誤解がさらに恐ろしい
意識的な誤解は心理的な距離により、さらに3種類に分類できる。仰視、蔑視、平視である。仰視の誤解は神話であり、蔑視の誤解は見くびりであり、平視の誤解は自己投影であり、全て人的なものである。
仰視の対象は、まず米国であろう。我々の米国はしばしば神話の米国であり、自己の文化心理において米国を理解し、そのなかに自分自身の認識を求める。中国は特に歴史的に被害者であるとの心理が強く、しばしば自身の傾向により米国の外交行為の評価が行われる。たとえば米国の大統領と議会が不一致しても、所詮はグルになっているとしか考えず、あたかも米国がとても超越した力によってコントロールされ、一つ一つの事柄は芝居であり、想像を膨らませ、概念化し記号化して米国を理解している。
蔑視の対象の典型は「小日本」であろう。もちろん中国人の日本観は羨望と軽蔑の複合体である。
平視は、問題を小さくとらえ、共通や相違の心理を持つものである。典型例は韓国に対する誤解であろう。中国人は韓国人に対して共通点があるという感覚を持つ一方、韓国人はなぜ生水を飲むのか? なぜコーヒーが好きなのか? 教会がなぜ沢山あるのか?等と疑問をもつ。一部の人の脳裏には朝鮮半島が歴史的に中国の属国であったイメージが強く、「中国中心論」が排除できない。それゆえ、この種の平視は蔑視と交錯することが多いのである。
世界自体の非解読性
最後は世界自体の非解読性である。世界は日進月歩であり、客観であり、理性的に世界を見ることは相対であり、本質的で真実の世界はもともと存在しない。たとえば趙汀陽は「現在の世界は一つの"非世界(non-world)"であり、地理が存在するだけで、政治は存在しない」とし、現在の世界は分裂していると指摘するのである。現在はグローバル化、政治の国際化、文化の地方化がされている。このような世界をどの様にみると言うのか?
世界に対する誤解は、中国人だけのものではなく、人類に共通なものである。人々は自身が知っていることから出発し、潜在意識においてその対象物を自身が知っていることに照らす。つまり「鏡像(ミラーイメージ)問題」であり、このことにより「国外の指導者や国、団体が分析者が良く知っている対象と同様の動機や目標をもつ」こととみなされる。
世界を誤解しているのか、それとも自身を誤解しているのか
中国人は果たしてどのように世界を見ればよいのか? それはまず正確に自分を見ることであろう。そして、世界を見るときに中国を忘れること。世界を見る過程は、世界が我々を見ている過程なのである。
中国人の世界観は、実際のところ中国観の反射である。中国人の米国観は中国的な結論なのである。
近代の中国人が世界を見て以来、米国に対しては期待をもっていた。「門戸開放」、ウィルソン大統領の「14ヶ条の提案」、「四警察官構想」、最近ではゼーリックの「ステークホルダー」等、多くの国民は強烈な興奮を覚え、米国への希望で満ちている。しかし、希望が大きければ失望も大きい。両者が相互に国民の米国観を作り出し、振り子のようになっている。
過度の中国の感情や主観が米国神話を生み出した。この種の神話は、米国に対しての実際の希望になり、自己実現の予言となった。このように、相手を正確に理解するには、相手の環境に入り込まなければ成らず、さもなければ、類推が出来ず、自分の考えで他人を推し量ることになってしまう。
言うのは簡単だが、成すのは難しい。1849年のアヘン戦争以来、中国は伝統的な身分を失い、現在になるまでその新たな身分を模索中である。歴史学者章百家は清朝が残した外交の遺産、中国100年の屈辱史が中華民族に心理的な無形の烙印を押し、何代、何十代にも渡ってもそれを消すことは出来ないと指摘した。「中国にとって本当の災難は、かつての外交体制が崩壊したことではなく、新たな体制が国際社会の最下層に置かれ、盟友が無く、どのような自衛の手段も無かったことである」2種類の国際的な体制が交錯する中、強烈なコントラストは中国人の平衡感覚が失墜させた。プライド感と屈辱感、外への憎しみと外へのへつらい、西側の学習と西側からの影響に対しての抵抗、中国人の胸のなかでは矛盾が共存し、交錯し、時によって違ったものが出てくる。
中国の国家の身分は現在形成の途中であり、世界は等しくもなく、偏ることも無く、深刻で複雑な変化の最中である。つまり、中国人の世界への誤解は世界が定型でないことであり、中国も定型でないことも影響している。
正しく世界を見ることを、あせってはいけない。どのような時代であれ、どのような発展の段階であれ、やれることをやるだけであり、厳しすぎる要求はすべきでない。社会変革時の中国人が急に世界を理解しようとしたことは、メディアによる迷信や国外の報道による誤りを信じてしまうことになった。急激に発展する世界においては、適度に周到かつ慎重なことが必要である。(作者 複旦大学米国研究センター副教授 国際問題研究院院長助理王義危 「国際先駆導報」)
1月14日のエントリ(中国人の誤解した世界 韓国人は愛国心から日貨を購入しない)の続編にあたる記事です。一流大学の教授が出て来て、豊富な知識を披露すると同時に、必要以上に小難しく解説することにより人民を納得させようとする、まあ自己批判する時の典型的な記事です。
ただ、ある程度この作者は評価できると思います。前回も指摘していますが、中国人は非常に主観的なのですが、中国人にしては比較的客観的に物事を見れている気がします。あと、中国人の日本観は羨望と軽蔑の複合体である。などと、あまり身分がある人が書くべきでないことも書いています。中華思想にも触れてますね。
最もこの記事、中国人が主観的であることを「相対的な世界」「台頭する中国」等に擦りつけ、自己の無知であったり、思考停止であったり、情報統制であったりとさまざまな反省点を回避しています。まぁ中国人らしい言い回しです。
「相対的」というキーワード、実は中国人を理解するのに重要です。全ての方面において「絶対的」なよりどころ、基盤が無い現在の中国人、彼らが主観的に行動する一つの原因だからです。「誤解」の一つの原因でもあります。作者は気づかずに使っているようですが。
↑新しい「反日」のネタを提供いたします^^
「中国人の日本観は羨望と軽蔑の複合体である」というご指摘は、むしろ「羨望と恨み」の複合体だろうと存じます。むろん、その「恨み」の源はどこにあるかは、自分でも不明である状態です。
どうして、あなただけは、目覚めることができたんでしょうか?
敬語を使いこなして「自分の恨みは、どこから来たのか」と相対化してらっしゃるあたり、中国人の中では日本への理解度が突出している方のようで、驚きと敬意を覚えます。
日本人の中にも、戦前・戦中から軍国主義に染まらなかった人が少しいて(山本五十六・吉田茂など)、彼らの言うことに早く耳を貸していたら、日本は道を誤らなかったかもしれないと思います。
例外的に覚めている中国人には、そんな日本人と共通する才能があるような、甘い期待を抱きます。
よく言われるものに、阿Qがありますが、
>http://marco-germany.iza.ne.jp/blog/entry/115095/
とか
>http://plaza.rakuten.co.jp/chinalifecost/diary/200702060000/
とかが分かりやすいかなーと。
てか、政府が内外の情報の出入りを絞っておいて誤解するなも無いもんだと思うのだが。
はっ、そうか!
この記事は暗に当局の報道統制に対する批判を含ませている……………とか?
他のとこでも、官僚腐敗に対して民主化示唆するような記事も出てたようだし。
>http://blog.goo.ne.jp/gokenin168/e/aba6bcd350c46bd78669c531c4657ccc
って、考え過ぎかなー。
中国の国際環境は満州事変の頃と大して変わらないような気がします。
相変わらず列強大国が利権を漁るために詰め掛け、相変わらず借り物の技術と知識で張子の虎状態で空威張りして、相変わらず自国を救うための努力を放棄している。
日本の友情に気付かず牙を剥くところまで満州事変以前の頃と変わっていない。
清朝は官僚登用の条件である科挙を日本への留学に変えたけど、結局は中国の現状に苛立ち、中華思想を脱することが出来ないまま闘争に明け暮れた。このときの中国人の苛立ちというのは、韓国人の『恨』にそっくりだと思うことがあります。
中国は物質的には近代化されたけど、政治的・思想的には近代以前のままなんじゃないでしょうか。
暮らしぶりをうかがう限り、ずいぶんシナが好きだと思うんですけど。
http://hannichi.seesaa.net/article/17590444.html#comment
私に中国留学の経験はないのですが、以前の投稿の中で私の書き方が拙かったため、プロキシさんに勘違いさせてしまったようですな。これは全くもって私の不注意のせいですので、この場でお詫びを申し上げます。留学していれば、もう少し中国語が上手になっていたかな。笑
> 暮らしぶりをうかがう限り
> ずいぶんシナが好きだと思うんですけど(プロキシさん)
人間というものは、プロキシさんが考えているほど単純ではないんですよ。一家円満でも国家や社会を嫌悪する者がいれば、家庭が崩壊している熱狂的な愛国者もいるでしょう。私を揶揄したいという一心からだとは思いますが、不用意な発言は自身を貶めるだけではないかと。
偏西風と共に日本にも大量の黄砂をもたらす黄土平原は現在、見渡す限りの砂漠地帯となっているが、考古学者の調査によれば、かつて黄河文明以前には広大な大森林が広がっていた事が明らかになっている。
その大森林がなぜ、今日のような砂漠地帯に変貌を遂げてしまったのか。その理由こそ中華帝国の発祥と綿密な関係があったのだ。
古代ヒッタイトから始まったとされる人類の鉄器文明だが、中国では紀元前14世紀以前から、銑鉄(せんてつ)によって鉄器を製造するという高度な技術がもちいられていた。
これは、高炉によって鉄鉱石をドロドロに溶かし、型に流し込んで鉄器に作りあげる方法である。
この方法だと、ナベやカマ、剣や鎧などを短期間で大量に作る事ができる。しかしそのためには、炉心を極めて高温に保たなければならない。
石炭が発見される前の中国で、そんな高温を発生させるための燃料といえば、木を切って薪とし、それを燃やす他は無かった。
中国はやがて春秋戦国時代を迎え、秦が統一を果たすまで500年近い戦乱の時代が続く。
各地に群雄割拠した勢力は、大軍団を作るため、必死になって鉄の剣や鎧を生産していたった。
そのため黄河流域の樹木は、残らず刈り取られ、燃料としてくべられる。その伐採には、当時のハイテクツールであった鉄製の斧も、ふんだんに活躍した事だろう。
かくして黄河流域を覆ってきた広大な森林は根こそぎ伐採されてしまい、後には剥き出しになった黄土砂漠が広がる事になった。
今や黄土砂漠は首都である北京の近郊にまで迫っている。
いったい有史以来、中国人が地球上に吐き出したCO2は、どれほどの膨大なものだっただろうか。
中国文明の始まりは、中国文明の“終わりの始まり”でもあったのだ。
>そのため黄河流域の樹木は、残らず刈り取られ、燃料としてくべられる。
>かくして黄河流域を覆ってきた広大な森林は根こそぎ伐採されてしまい、
映画「もののけ姫」でも、そこらへんの矛盾を突いてましたね。
自然環境を克服して文明を発達させる事は、すなわち自分たちの居住環境を破壊することでもあるわけで。